私の父は、いわゆる「品のいい紳士」というタイプではありません。
自然が豊かな、九州のとある街で生まれ育ち、川で泳ぎ、野山を駆け、剣道に勤しみ、男三兄弟でワイワイと育てば、致し方ない気はします。
戦争の傷跡が残る中、両親(つまり祖父母)は必死で働き、子供達を大学まで通わせました。
父の父、つまり私の祖父も、街中で食堂を数店経営した後、道場を開き、つまり剣道の先生でしたが、お茶目でチョロチョロとした人で、品のいい紳士タイプでは、ありませんでした。
しかし、祖母方の、曽祖父は違いました。曽祖父はいつも着物で、どれだけ年老いても背筋は伸び、完璧な正座をし、私は幼心にも「この人の前で、いい加減なことをしてはいけない」と、会う度に感じたものです。
曽祖父は、士族の出でした。とは言え、分家で、仕えていたお城がとっくになくなっていた上に、戦争があり、それを証明するものは、今となっては僅かです。
本家にあるという当時の城主から授かった短刀、西郷どんがお通りになったときには本家に御一行が立ち寄ったというエピソード、そんな僅かなものよりも、曽祖父自身の立ち居振る舞い、佇まいの方がよほど、説得力がありました。
ある程度の年齢になれば、「出自と品は、関係がない」のは、大勢の人が知る事実。つまり家や親ではなく、その人そのものの、魅力や培われた人柄や生き方、となってゆきます。
とりわけ、40代になった今、私が発見したのは、「品がある人」と「品位がある人」は、全くもって別だ、ということ。
私が感じる「品がある人」とは、型を知っている人、そして「品位がある人」とは、心を知っている人、です。
そして不思議なのですが、「型を知っていて、心を知らない人」は「型も心も知らない人」よりも、品位がなく見えます。
よく、お金に対する意識を変える文言にある、「お金持ち=嫌な奴」というイメージがありませんか?というのは、この「品位がない人」のことをさしているのだと思います。
そして型にとらわれて心がない人ほど、他者の「型」をジャッジし、眉をひそめます。これほど下品な行為はありませんし、それは差別主義に通ずるものでも、ある。
長年感じていたことをはっきり言語化出来、すっきりいたしました。
夏前の、束の間の涼しさの中、皆さん沢山の事が進みますように。もちろん私もです!
湘南the evening Star